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『ゴッド・ブレス・アメリカ』 俺たちがこの腐った国に裁きを下す - 1953ColdSummer

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『ゴッド・ブレス・アメリカ』 俺たちがこの腐った国に裁きを下す


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ゴッド・ブレス・アメリカ
GOD BLESS AMERICA
2012/アメリカ R15+ 監督:ボブキャット・ゴールドスウェイト 出演:ジョエル・マーレイ タラ・リン・バー 他


「Nerd」を、凡夫、てな具合に訳している舶来小説を稀に見りゃるのであるが、はは、こちらの英語能力が蛸以下だからといって、或いは精霊信仰の象形文字以下だからといって、莫迦にしてはいけないよ。「Nerd」。ナード。ニュアンスとしては、オタク野郎、としておくのが話が通るし、字幕で映画を観る諸賢にも、ああ、と思い当たる節があろうかと存ぜられる。

 だが、オタクと理解されてしまう内は幸せなのだ。問題は、凡夫、と訳されてしまった人間のそれからの人生にこそ発生する。
 オタクでも、殺人鬼でも、蝦蟇油の行商でも何でもいいが、彼らにはコードが埋め込まれており、つか、雷雨の夜に廃城でコードで構築された、つても、成程々々、道理で君の容貌は人間離れしていると思ったよ、と納得されそうなほど、コード的、記号的である。
 これが、凡夫、であるとどうなるか。
 はきと申し上げるがこれはコードによる約分が出来んのである。凡夫は素数が如きものであり、割れない砕けないといえば聞こえは良いが、割られるときには無茶糞されて割られる事態に発展する。

 凡夫は容易に社会に溶け込めるが、やはり人間は人間、カメレオンや光学迷彩のたぐいではないので、ほんのちょっと自分が上がったとき、半歩ほど自分が下がったとき、その存在が極めて歪・苛烈に強調されっちまうのもままある話。
 そして大体に於いて、これはニュートンと林檎の果実が手を組んで目論んだ陰謀であるやもと目を付けておるのだが、重力、てなものが地球上には御座んして、それが作用したのか、七代前の先祖が猫に祟られたのか、人間は上がることよりも下がることの方が多く、立て板に水を流して渋面を決め込むわけではないが、まあ、下駄の緒は切れるわ、黒猫が目の前を横切るわ、脚立の下を通ってしまったわ、レベルで「下がること」が日常に溢れており、これは幾ら心の駒に鞭打とうとも如何ともし難いことである。まあサイコロを振ったら4しか出ないだのタロットカードを引いたら愚者が正位置で出ただのと呪術的/反文明的なことでほたえておる内はまだよいが、あんた脳に腫瘍があるよもう長くないよ、あんたセクハラしたんだってね解雇も当然だよね、と生活レベルで下がってきて、トドメに離縁した妻が若い警察官としっぽりやっていて親権取られた子供にまで悪態を吐かれたら。

 先に、凡夫、が上がったり下がったりすると存在が強調されると書いた。存在が強調されるとどうなるか? 映画に関しては、まず上がった人よりも下がった人の方が観ていて面白いので下がった人を前提として書くが、ワガの存在の強調から社会からの乖離に気付き、そもそも社会なんてものがあるのがおかしいのだ。社会が悪い。社会を伝えるあのテレビが憎い。死なすぞ。という被害妄想の煽動にものの見事に当てられてしまい、社会を憎悪し、雨の日に傘を差さずに出歩いたり、古今東西の死者の荒御魂を呼び出して社会を壊滅させるべく1人でぶつぶつ喋るようになるのである。
 だが、それはいかにも日本的な考えのように思う。
 下がってしまった、凡夫、が、社会との差異を神経症レベルで考え始めたらどうなるか、アメリカでやってみたのが本作『ゴッド・ブレス・アメリカ』である。

 脳腫瘍離婚解雇おまけに隣家からはテレビと夫婦喧嘩と赤子の泣き声の爆音が毎日毎晩繰り返されるという、碌な目に合わない男は当然碌なことを考えられるべくもなく、もう駄目人間の一番、時間の無為なる消費であるテレビをじっと、またはぼけーっと眺むることで現実逃避、現実逃避? 甘いよ。アメリカの国を嘗めてもらっては困るな。テレビに出てくるのは隣家みたいな莫迦ばっか、人種差別など不快に属される下劣な番組ばっか。挙句、セレブ女子高生が今風の言い方で言うとリア充つうんですか、金、人脈、美貌を臆することなく晒してけつかる。この時点で男の脳内のスイッチが「死にたい」から「殺したい」にスライドされ、隣人の車をこれ窃盗、セレブ女子高生の通う高校に乗り付けてこれを射殺することに成功する。そしてそれを見ていた女子高生と何やかんやあって意気投合、現代のボニー&クライドと化した2人は社会の塵屑どもを殺戮する旅を開始する。

 こうした映画からはどうしても社会風刺を読み取ろうと気構える。たまに恋愛映画を観て「これは優れたサイコスリラーだね」などと言う人があるが、そこらに自戒しつつ、丹田の辺りに力を込めたのだが、その力がそのまま屁となって出るほど笑ったし、ブラックジョークの嵐、そして音楽や映画(例えば『JUNO/ジュノ』なんか)を実名晒してディスるその様子は清々しくさえある。余談ではあるが、本作の少女殺人鬼ロキシー、本名タラ・リン・バーは“ポスト・クロエ・モレッツ”などと評されておるらしいが、作中で「クロエ」という少女を忌み嫌いそれが脳漿弾けて殺されると大喝采しておったことに、深い意味を勘繰るべきか否か。

 もちろん映画に込められたメッセージを忘れてはいけない。映画館でマナーの悪いやつ、ホモ差別運動をする団体、聞く耳持たないタカ派政治家、彼らは否応なく銃殺される。果たして、それが殺生せしめらるるほどの罪か? と思う向きもあろう。だが、そう思うのはあなたが三人称の世界に寛容であるからだ。主人公フランクと相棒ロキシーには、それらが物質界から強制排除されるべきもの、としか映っていないのだ。本作に社会風刺や不正への糾弾のような概念を感じ、なのに主人公2人の地獄の逃避行を「過激だ~」つて喜ぶのは、別にそこまで社会不正に過激にならんでも、という楽観論に繋がる。

「何でもかんでも他人のせいにするのではない」と修行僧のような説教を垂れる人がよく居る。
 然しくして、実際、まあ、なんつか、他人のせいである事例が殆どであるし、それを拡大すると社会のせい、つことになって、自己責任論は社会を平滑に運行するためのシステマティックな精神論であるのだなぁと気付く。
 故に、社会に対する他罰性が存分に発揮され、その媒介たるテレビを攻撃対象とした本作は素晴らしいし、あまりにもアイロニカルな実状を以って了とした本作からは迫真のメッセージを感じる。蛸。感じるだけではいけない。我が朝ポンニツでもすでに誰かが、どこかで、爆発寸前なのだから。




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