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『桐島、部活やめるってよ』 学校は聖域ではなく戦場、実存を賭けた戦場 - 1953ColdSummer

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『桐島、部活やめるってよ』 学校は聖域ではなく戦場、実存を賭けた戦場


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桐島、部活やめるってよ
2012/日本 G 監督:吉田大八 出演:神木隆之介 橋本愛 他 原作:朝井リョウ 『桐島、部活やめるってよ』


 桐島君が部活をやめるらしい。

 大変なことである。

 何故なら、らしい、と助動詞で推定していることからも察していただけるように、桐島君が部活を辞める、止す、というのは不確定事項である。にも関わらず、「やめるってよ」とどよめき立つ、クールな人のような振る舞いをしているが、内心気が気ではなく「やめるってよ」という台詞がわずかに震えている、みたいな印象を受ける『桐島、部活やめるってよ』というこのタイトル。このタイトルからは、(1)桐島君は影響的なカリスマである。(2)しかしその意図するところは定かではない。(3)その桐島君が部活をやめるらしい。てな事情が読み取れる。その知覚と判断に絶対の信を置くことにしたわたしは、とりあえず桐島君のことは忘れて午を摂ろうと、蕎麦をずるずる手繰っている最中、あっ、と、ひとつの仮説に思い至った。

 桐島君は、ダグラス・マッカーサー元帥の方法論を採択したのである。

 GHQ最高司令官と高校生の糞餓鬼に何の関係性があるか、血迷うのもいい加減にいたせ、この愚劣な疣痔の出来損ないがっ、と憤る声も聞こえて来そうであるが、少しく待っていただきたい。
 マッカーサー元帥は、畏くも先帝陛下の威厳は玉音放送まで露出をしなかったその神秘のベールにあると睨み、自分も日本で執務をこなす際には、第一生命ビルの16坪の執務室に引き篭もり、何事も即断即決、ワガの姿をチラリズムに留め、威厳を築こうとしたという。所属するバレー部ではキャプテンを務め、成績優秀、校内一の美人を彼女とする桐島君がこの方法論にアタリを付けたであろうことは想像に難くない。姿の見えぬ桐島君。部活をやめる桐島君。雲散霧消した彼の姿と、話題先行、部活なんて内申のためだけの稚拙な遊戯だと気付いたのか、さっき冗談で言ったマッカーサー元帥のチラリズムを本気に受け取ったのか、部活をやめるという情報が校内を疾く駆け巡り、ある生徒はぷるぷる怒り、ある生徒は連絡のつかぬ桐島君を心配し、ある生徒は関係ないのにコラテラル・ダメージを受ける。高校生なんてえのは学校が世界の殆どである。そしてその世界を神代の始まりみたいに混沌とさせ、各生徒の精神を圧迫せしめた桐島君は姿を現さない。

 敵対する高校が雇った妖術師に集団催眠をかけられておって、桐島君なる人物は実は存在しなかった、という可能性もあるし、帰宅途中、野武士に斬られた、という可能性も否定は出来ない。可能性。やたら他人の論理的な矛盾をけらけら指摘して嫌われていたとはソクラテスも自省しているが、可能性、理由といったものは驕慢な顔をして論理を用いなくても一言で説明できる。できるのだが、これを持ち出すと幕がFIN、とはよく言ったもので、身も蓋も中身もそもそも流通も無いことを言ってしまおうと思う。桐島君とはマクガフィンである。

「マクガフィンである」と、観りゃ分かるようなことをしたり顔で言い切ってしまい頬が紅潮、真面目に言ったんじゃねーよ巫山戯て言ってっからー真面目に取んなよなー(ポチっとtweet)という意味を込めて「あ~マクガフィンマックがフィーーーン」とお道化て言ってみた。惨め過ぎて涙が滲んだ。かように無体な知ったかぶりは恥をかく。マクガフィンである、で終わってしまうところが今の乃公の限界であり、マクガフィンだからどうした、を語ってこそ、語らえる可能性、をティーンズであった当時高校生のわたしは持っていたのではなかろうか。
 否。
 肺魚が自分は陸生動物であると勘違いして陸に上がったらブラキオサウルスに踏み潰されて死んだような目をして、日々ゲーセン通い、まったく希望の感じられない空を見上げては半笑いになっておったティーンズのわたしが、そんなセンス・オブ・ワンダーを持っていたわきゃねえだろうというのは何より自分自身が一番よく分かっているし、故に、本作に対する共感? 高校生活あるある? というものは感じられず、本作をなぞらえるによく名前を挙げられている『エレファント』のラスト30分だとか、『丑三つの村』のラスト30分だとか、そうしたものの方に共感を感じてしまう自分はスクールカーストというか、スクールカースト外に居ったのだなと尾崎豊を聴きながら思うのでありますが、本作のクライマックスにはひとつのカタルシスが用意されていて、そのカタルシスの半分は優しさで出来ています、といった趣にじゃあ残り半分は何なのだと考えてみた結果、これは「感動」ではなく「情動」なのだなと結論した。上っ面だけの取り繕いじゃなくて、もっと根本的なところから来る妄想と渇望。それがスクールカーストという階級を取り払い、ジョックス及びクインビーとサイドキックスに対し、ナードがナードなりの凶行を呈する。然しくしてそれはかわいいものである、という点では等身大の高校生のリアルを感じないでもなかった。
 
 学校、家庭、サークル、学生は幾つもの小宇宙に存在しているわけなのだが、想世界と実世界のズレに過敏にもなっている。桐島という依代を喪失しつつあることを自覚したとき、幼い自我はいとも容易くズレのズレ、断層に落ち込んでしまう。特に集団規律に糞五月蝿い運動部には混乱が顕著で、彼らは知らずの内に自分と桐島の相互補完、自我と自他の問いを自らの内に立てている。一方、文化部はモラルゲームから優位と普遍を導き出すような徒労を良しとせず、諦観とも見られるような態度で自分のやりたいことを、やりたいようにする。その運動部と文化部の関係性とは何ぞ、と考慮してしまう時点で、最後に一瞬現れる桐島の姿、クラスタを超えた関係性のかすがいをどこかに求めているのかも知れない。

 女子生徒特有の他罰的な言動、他人をコンテンツとしてしか見ていない嫌らしさや、発情期真っ盛りの男子生徒の汁だくな会話、そしてオタクに分類される生徒の変に熱病的な視点、これらの演出はすごく勉強したのだろうなぁと感じる。彼我の区別の無さもそうだし、群像劇として繰り返す同じ曜日の主体によって、学校という小宇宙は寛容にもなり狭量にもなる。
 これはわたしの持論だが、学校とは聖域ではなく戦場である。スクール・シューティング事件で銃を乱射した学生が勝者か敗者かは敢えて述べないが、そうすることによって、学校というものの総体とは何かを定義付けようとしていたのであろうことは痛みを伴い理解できる。戦場で生きること。桐島を求めること。静かに息を潜めること。各々が生存手段を探索している。だが、それが勝利に必ずしも結びつかないところが高校生の限界であり、特権でもある。


桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)桐島、部活やめるってよ (集英社文庫)
朝井 リョウ

チア男子!! 少女は卒業しない 学生時代にやらなくてもいい20のこと もういちど生まれる シナリオ 2012年 09月号 [雑誌]

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