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『私が、生きる肌』 肌を隔てて“それ”を憎しみ愛すること - 1953ColdSummer

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『私が、生きる肌』 肌を隔てて“それ”を憎しみ愛すること


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私が、生きる肌
LA PIEL QUE HABITO (THE SKIN I LIVE IN)
2012/スペイン R15+ 監督:ペドロ・アルモドバル 原作:ティエリ・ジョンケ 『蜘蛛の微笑』/『私が、生きる肌』


 おほほ、おほほほ、と、呵々大笑しておる。というのも何も気が狂ったわけではなく、わたしはついに、自然の摂理を克つということを成し得たからだ。自然の摂理。思えば自然というものは意地悪なもので、四季折々、なーんて風雅な物言いに酔う人も居られるが、莫迦を言ってはいけない。春には花粉で苦しめられ、夏には人死にが出るほどの熱で灼かれ、秋はセンチメンタリズムっつって人心をこれ狂わせ、冬ともなればかのナポレオン・ボナパルトをもちゃっぷいちゃっぷい言うて撤収せしめたのである。斯くした残虐横暴なる自然をわたしは克服したこともあり、ここに天然ではない、人工による、真なる人間としての営みの尊厳及び自我(アートマン)を提唱したいと思う。
 と、いうのも、簡単なことで、時節柄、雨が降る、雨が止む、そして湿気で蒸し蒸しして糞暑く、腹立ちのあまり東京ブギウギを口ずさみながら道行く人間の頭を片っ端からフライパンで叩きたくなる衝動に襲われるという経験は誰しもがあろう。だが、そこで東京ブギウギを口ずさみながら道行く人間の頭を片っ端からフライパンで叩いてしまうとお縄になり、尿検査をされるなどして面倒臭いことこの上なく、また起因は糞暑さにあって、それ即ち自然に負けたということになり、人工による真の人間の営みからは程遠いものになってしまう。では、どうするか? これが簡単なのである。暑い、死ぬ、灼熱のエピローグだ、などと言いながら家電量販店に赴き、扇風機という機械を購入すればよい。これはボタンを押すだけでプロペラが旋回を始め、後は何もしなくてもこちらに涼やかなる風をもたらしてくれるのである。また旋回しているプロペラに向かって「あー」などと言うと、声色が変化し「あ゛ー」と聞こえたりして面白いので、わたしは先程からずっと、おほほ、おほほほ、と、プロペラに向かって呵々大笑しておる。わたしは自然を克ったのだ。お゛ぼぼ、お゛ぼぼぼ。

 ここまで書けば如何にわたしが自然を忌み、人工的なる生き方を唱道したいか分かっていただけたかと思う。だが、世の中なんてえものは世知辛くありましてな。例えばこれから一層暑くなりまするが、そうなると、水泳パンツ一丁でぎらぎら太陽に灼かれながら海に漬かる、という極めて野性的な行為が健全とされ、扇風機やエア・コンディショナーで室内で涼を取る行為は、引き篭もり、御宅、などと蔑まれ、この愚昧が、何を言うか、乃公は人工的に生きておるのだ、と主張しても、夏場に太陽の下に出ずることをしない人間は根暗だガリ勉だ幼女誘拐魔だ、と、謂れの無い誹謗中傷を受けるのである。あーもう変態でいいよ変態で。変態ばんざーい。河童の屁。ははは。外出すりゃいいんだろ外出。でも不貞腐れて海に漬かるということをせず、外出先に涼の効いた映画館を選ぶところに僕の知略の一片が光っていると思うな。そして人工的なる生き方の補遺とすべく、人工皮膚の達人が人造人間を拵える話、『私が、生きる肌』を観てきたよ。

 先程から筆を尽くして自然は悪だナチュラルファッキンということを主張してきたが、流石に、人間そのものを人工的に拵えてしまうという大胆な奇想には後塵を拝した気がし、ええと一応原作は読了しておるのでネタは割れておったのだが、やはり映像として人造人間を見せられると、へえ、これの正体があれなのね、うふ。と感慨もひとしお、古きよきフランケンシュタイン譚と、現代ノワールテイストな創造主譚のグロテスクな融合がまずあって、それが倒錯美を生み出しているところが古風であり、今風でもあり。
 濃ゆい顔をした外科医つまりアントニオ・バンデラス演じるロベルなる男が、全身ストッキングに身を包んだ女性ベラを自宅に幽閉しておる。さて、この女性は何者なのか。なんで幽閉されておるのか。それはアントニオ・バンデラスの顔の濃さと何か関係があるのか。といったフーダニットやホワイダニットに主点を置いて話は進むのであるが、原作で一人称、二人称、三人称と使い分けられ章立てされておった部分が、そのまま時系列別に展開されておる構成が心憎い。とは言い条、いちいち字幕で「◯年前」などとかしこみかしこみ説明して下さっているので、時系列のシャッフルに於ける混乱ないし混沌は起きることはなかろうし、それでも混乱状態に陥ってしまう人のためにパンフレットにネタバレが全部書かれておるので、安心々々。

 原作での二人称で書かれた章、「蜘蛛」というキャラクターによるたっぷりねっちょりとした拷問の様子がカットされ、「肌」の造型をフィーチャーすることにしたアルモドバルの判断は如何様なものであったか。人工皮膚の天才という設定を付与された主人公は、監禁してある女性に布の切れっ端なんかを与えて、人形作りをすることを黙認している。言うまでもなく、人形に貼られていく布の切れっ端はこれまた「肌」の暗喩であって、ざくざく切られる服や布がゴルチェやドルガバの提供であることからも、「肌」そのものの質感や主題に力を入れ込んでいることが分かる。肌は見た目であり、内面を覆い隠すもの。表層と深層の障壁。ここにミステリとしてのの骨格を見るか、耽美的な外面に見惚れるか。こうした二択を迫ってくる映画の常として、真相はこれまた意地が悪い、自然に人工を施すと変態になるよ、変態に! とでも言いたげなものである。

 倒錯的なニューロティックに着地する物語ではあるが、アイデンティティの在り様を問われる物語でもある。見た目はこうだけど内面はこうなの。憎いけれど愛してしまったんだけどどうしましょう。「どうしましょう」って言われてもなあ。兎角、言葉を選ばずネタバレひとつかますだけで壊れてしまいそうな繊細な作品であり、その砂上の楼閣に辛うじて成り立っているのは「肌」を作るという行為による人間性の否定、そして肯定である。造物主やクリーチャーとしての主眼は、チラリズムに留められている。

 見た目の変貌に連動する愛憎の変貌にも小児病的というか、子供っぽさを感じる作劇となっておって、例えば、例えばですよ、大嫌いな相手とねんごろになることができますか。無理でしょう。じゃあ大嫌いな人が大好きな人に化けたら、ねんごろになれますか。さあどうだ。というある意味哲学的な問いかけを、異常性愛として描いており、そこでも「肌」が表徴として、「肌」があれだからこそ、といったニュアンス込みで織り込まれておる。自然な対応に人工が介入することによる異常性は、人工を選ばざるを得なかった不幸な出来事に起因する、というところが捻れていて、が故に倒錯を生み出すこととなる。ナチュラルな流れに手を加えることの無謀さと一時的な快楽。なんでしょうね、室内で扇風機やエアコンをぶん回している自分がアントニオ・バンデラスになったような気も致しますね。


私が、生きる肌〔ハヤカワ・ミステリ文庫〕私が、生きる肌〔ハヤカワ・ミステリ文庫〕
ティエリー・ジョンケ 平岡 敦

冬の灯台が語るとき (ハヤカワ・ポケット・ミステリ) 暴行 (新潮文庫) 犯罪 サラの鍵 (新潮クレスト・ブックス) 曾根崎心中

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