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『別離』 みんな、ほんの少し幸せになろうとしただけなのに - 1953ColdSummer

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『別離』 みんな、ほんの少し幸せになろうとしただけなのに


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別離
JODAEIYE NADER AZ SIMIN (NADER AND SIMIN, A SEPARATION)
2012/イラン G 監督:アスガー・ファルハディ 


 りゃりゃりゃりゃっ、りゃりゃりゃりゃっ、なんつて、一時期、阿呆のようにペンを振るっておったのですね。とは言っても、「ペンは剣より強し」などと言いながら剣豪と十合ほど打ち合っておったわけではなく、かといって、無為徒食に甘んじておったら精神が退行して無機物になってしまった男を題材にしたSF漫画を描いておったわけでもなく、何がためにペンを振るっておったかというと、胡乱な小説を書いておったのですね。小説。僕はそのとき物語の泥濘に漬かっておった。物を語り、紡がねばならぬし、それが僕の天命であると、ラリったようになって書き続け、各種文学賞に応募し、同人誌を出し、手売りで詩集を売った。それを手に取った女子高生にその場で詩を朗読され、爆笑されて唾を吐き掛けられた。折れたね。心が。以降、わたしはものを書くには書いてはおるが、あふるるイメージを形にする創作をすることができず、かといって指導・鞭撻をしてくれる人も居らず、物書きの中でも最下層・最底辺に位置する、他人の創作に乗っかってエゴを吹聴する寄生虫、つまり映画感想書きという最下級の物書きとなってしまい、こうして地獄の責苦に耐えているよ。

 そうした、何らか何某との決別というものは、ええと創作のエデンから追放された乃公が言うのも烏滸がましいが、物語の主題としては歴史伝統血筋があり、身に覚えのある人が多いことも手伝って、どんなのらくら者が書こうともそれなりに説得力っつーの? 普遍性っつーの? が、あって、はは、とりあえず別離させておけばよかろうて、はは、なんて虚業めいた方法論を肯定させてしまいがちである。
桜桃の味』といえばまさしくこの世から別離しようとしておる人の話であったが、同じく、侮れぬイラン映画の新星アスガー・ファルハディが別離を描き、別離に関するあれこれを描いた映画、その名も『別離』を観てきた。前述の如くわたしは創作と決別したが、本作『別離』では、夫婦の決別が描かれ、親子の決別が(具体的には説明されておらぬが)描かれ、人間関係そのものからの決別が描かれる。観後、「やっておれんよ」とつぶやいて酒精を少々ひっかけたのだが、たぶん、この人たちは乃公が筆を折ってしまったことなどとは違う位相で、イランの陽光のように灼け付きながら「別離」したのであろうなぁと思うと悲しくなって、また「やっておれんよ」とつぶやいた。やっておれんよ。

 イランはテヘランで日々を貪っておる夫婦。妻シミンは眼鏡っ子である娘、いや別に眼鏡は関係ないと思うけど娘の将来が気になって仕方なく仕方なく、海外へ移住したいなぁ、などとこぼしていたのだが、夫のナデルは、何を言うか、アルツハイマーである父を残して他国へ行けるかっ、と、妻を一喝する。行きたい行きたい行きたいー! と妻は駄々をこね、行けない行けない行けないー! と夫は頑なに移住を拒む。ついには裁判所に離婚を申請する羽目になり、まあ手続きが色々あるから少々待ってや~ということで、妻シミンはしばらく夫ナデルと別居することにした。しました。じゃあ家政婦でも探すか、父の介護も必要であるし、ということでナデルは伝手をたどってラジエという女性を雇い入れたのだね。ところが、ある日、ラジエが、ですよ。アルツハイマーである父親をベッドに縛り付けて勝手に外出するということをし、それを知ったナデルは怒髪天を衝く。ラジエの言い分に耳を貸さず手荒に追い出すナデル。だが、その日の内に、ラジエは実は妊婦であり、ナデルのせいで流産してしまったという報せが届いたのであった。

 一応、ミステリ仕立てで、あまりフェアとは言えぬものの最後の方にどんでん返しが用意されておる。然しく本作に於いてはそんなもの割とどうでもよくて、あちらで言う中流程度の家庭が崩壊していく様子、また、それに関わった家政婦の家庭が余波で不幸になる様子、なんてなものを、吐き続けなければならぬ嘘や、説明されない謎と共にきりきり描く。実は悪い人なんて1人も居なくて、ただ、みんながほんの少し幸せになろうとしただけで足元が瓦解し、みんなが結局不幸になってしまう、というお話なのにそれが露悪的ではない、というのは脚本書きとしては相当の技量が必要であったのだろうと思う。

「コーランに手を置いて誓えるか?」といった啖呵の切り方から、服装、食事シーンは無し、などのイスラム圏ならではの文化を知っておけばよりこの映画との距離は近しくなるし、はな、バイブルベルトの住人であろうとも本作を観ららば「普通のイランの人」の像を結ぶことは容易になっておろうと思われる。本作が国境を超えて賞を獲ったことの意味は、我々が推察する以上に大きいのである。

 誰を信用するか、何が嘘なのか、といった問い掛けは会話劇として進行する。つまるところ、それは選択肢として観客に提示されており、そしてまたこの映画の意地の悪い部分であり、痛烈な部分なのであるが、最終的に「答え合わせ」は成されない。夫婦の娘が作中で行なっていたような答え合わせは、本作ではルールの埒外にある。嘘や離婚が許されなかった時代から、近代化が進み、嘘も離婚も当たり前に存在する現代イランを舞台に、自由化の代償として年端の行かない少女や、貧困家庭に選択を迫り、だが答えは明示されないという生活問題の提起じみたものを感じ、白か黒か、1か2か、正義か悪かといった単調な選択に知らず知らずに逃げている自分を戒めようと思い、とりあえず畜肉をつつくのを止めてみた。簡単に創作から「別離」した自分のちゃらんぽらんを悔やんだ。やっておれんよ。




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現代イランの社会問題がとことん盛り込まれていて、まるでニュース・ドキュメンタリーのよう。 なぜラジエーは望まぬ職に就いたのか? なぜシミンは夫と義父を捨ててまで国外移住...

20120811 21:33 │ from 名機ALPS(アルプス)MDプリンタ

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