外壁塗装 東京

『恋の罪』 城を目指すには、快楽の地獄を抜けなくては - 1953ColdSummer

1953ColdSummer ホーム » スポンサー広告 » 映画 » 『恋の罪』 城を目指すには、快楽の地獄を抜けなくては

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。



『恋の罪』 城を目指すには、快楽の地獄を抜けなくては

ktss1.jpg

恋の罪
2011/日本 R18+ 監督:園子温


 ええと愚民洗脳機、つまりテレヴィジョンなんてものはまったく観ないし、三文ゴシップ誌なんてものも昔よりはあまり読まなくなって久しいのだが、それでもどこをどのように経由したのか、視覚に、或いは聴覚に飛び込んでくる言葉、というものがあって、それが、「恋愛体質」だったり、「恋愛中毒」だったりして、頭蓋を取り外し脳味噌を掻き毟りたくなるような気分にたびたび襲われる。
 奇しくも本日は、伴天連の総大将の誕生日を祝って七面鳥を縊り殺す奇祭の日、まあ人口に膾炙した言い方で言えば、クリスマス・デイ、なのであるが、インターネットにはこの日に怨嗟を撒き散らすという習性があって、独り身の人たちがオロローンと魑魅魍魎めいて活発化しており、ええと伴天連の総大将の誕生日を言祝ぐのとてめえがモテないのに何の関係があるのかは知らないが、とにかく恋愛の話に姦しくなっており、それに連想されるのが先に書いた「恋愛体質」だったり「恋愛中毒」だったりするのである。

 ようするにヤりてえんだろ。

 なら言葉を粉飾することをせず、過程に過ぎない「恋愛」部分を目標である「セックス」として、堂々と「セックス中毒」「セックス体質」を連呼し、ワガの貞操観念、倫理観、獣性、など、を、幻覚キノコでも喰らったかのような顔をしてほたえ騒げばいいのである。

 そうした性愛の喧騒である園子温監督作品『恋の罪』を観てきたのであるが、前作、『冷たい熱帯魚』(自分の感想はこちら)が「父性の再建」であるならば、こちらは「女性性の実存」といった趣。撮影現場でも情け容赦無かったのだろうなぁ、と思わせるに足るえげつなさ、苛烈さ、そして文字通りの肉体性が、144分に渡りスクリーンを支配する。

 東電OL殺人事件にインスパイアされて生まれたという触れ込みの本作は、上場企業のOLと売春婦という二重生活を送っていた女性が殺される、という着眼点こそあるものの、実際のところはほぼ園子温監督のリ・イマジネーションである。実録殺人モノにするには確実な資料に欠けるし、また犯人の冤罪の可能性を考慮して、という監督の言い分はあるが、この事件を起点として「女性」を主題にした何かすごい映画が撮れないか、という着想がやはり最も大きかったのだろう。
 ちなみに、『恋の罪』というのはマルキ・ド・サドの小説から拝借したタイトルで、内容に通ずるものではないが何か感覚的に合致したから用いたという。

 田村隆一の詩、『帰途』が何度も引用されることからも類推できるように、本作は詩情的なもの……と言うと語弊があるかも知れないが、ここで言う「詩情」とは、何やらふわふわしたものや、ネットに書き散らかされている「きれいなことば」を適当に並べ立てただけのもののことではなく、感情そのものを文字という触媒を通じぶつける、本来の意味での「詩情」だ。
「言葉なんておぼえるんじゃなかった」と、しつこいくらいに反復されるこの一節は、言葉は「身体」が伴うことで初めて意味を成す、という売春婦の台詞、延いては作品の主題を、3人の閉塞的な性に囚われた女性の身体表現を以て表現しておる。

 旦那の友人との浮気が止められない女刑事、厳格な夫に息苦しさを覚えながら身体を持て余す人妻、大学の助教授という立場にありながら、実父を男として愛し夜は売春業に精を出すファム・ファタール。
 この3人に焦点を当て、本作はヘアヌード披露から立ちション、いや女だから座りション? までの一種の性的肉体言語から、アイデンティティの確立に至る淫らな行為の数々をこれでもかと映す。「愛が無ければ金を取らなきゃ」という主張からも分かるように、身体は「言葉」を、金銭は「価値」を、それぞれのイコンとして担当しており、それを台詞で説明するのはちょっとやり過ぎ感も否めなかったが、まあ、理解はしやすくなっていただろうと思う。

 とは言い条、やはり男目線で描かれた女性の性の開放に難色を示す人間は多数存在するようで、『冷たい熱帯魚』が価値観の陳列ならば、本作『恋の罪』は、価値観の押し付けであって胸焼けがした、的な意見も散見される。
 女刑事、売れっ子小説家の妻、大学の助教授、という、それなりに社会的地位を築いておる3人の女性は、肉体的欲求を充足させる以外に日常の迷宮を抜ける術を知らない。その様子を指して「城を探しているけど、辿りつけない」と言わしめているが、これはもちろんカフカの『城』のことであって、漠然とした目的地を目指して彷徨する女たちが闇の中、手探りでセックスに淫していく様子の暗喩であると稚拙ながら感じた。

 冒頭のゴア描写、マネキン人形と接合され、断面に蛆が蠢くバラバラ死体。これの身元がひとつのミステリとなっておるのだが、そこに3人の女プラスそれにまつわる人間たちが関わってくるので、ちょっとしたサスペンスもあるのだが、やはり過剰である園子温映画に繊細なサスペンスをどうこうするという神経質さは存在せず、割と早い段階から死体と化したのは誰であるかが判る。その過程が構築されていく様子に、心の闇、だとか、淫売に身を堕とす諦念、だとか、そういったものが演出されるのだが、要するに、セックス依存症の言い訳である。その域を脱していないことは明白であるし、また、作劇もそれを否定するものではない。割と簡単なことを、過剰にやっているからこそ生まれるエンターテイメントというものも存在する。

 毎日通る道筋から一歩踏み出せば、肉体の地獄とも形容されるべき世界が広がっていることをエンディングで示唆され、そこには90年代の、立ちんぼが群生している路地裏に通底するものだと本作は語る。女性を抉り出した後に世相も抉り出すか! とここで思わせるのだが、そこには教訓は存在せずただ事実のみが羅列される。




関連記事
スポンサーサイト



コメント
非公開コメント

はじめまして。

はじめまして!
記事に関係のないコメントで恐縮です。
もし宜しければ相互リンクして頂けますと幸いです。

突然の申請で申し訳ございませんが、是非ご検討下さい。
当方、主に映画やアニメブログになります。

タイトル
【ジャンル別映画・時々深夜アニメ】30歳A型独男の「今日はな~に観よっかなぁ~」

URL
http://ajfour.blog.fc2.com/

宜しくお願い申し上げます。

20111227 13:58 │ from ajURL

トラックバック

http://d1953coldsummer.blog64.fc2.com/tb.php/757-6b7a0617

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。