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『悪の法則』 生皮を剥いだ野獣の王国 - 1953ColdSummer

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『悪の法則』 生皮を剥いだ野獣の王国


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悪の法則 
THE COUNSELOR
2013/アメリカ/R15+ 監督/リドリー・スコット 出演/マイケル・ファスベンダー/ペネロペ・クルス/キャメロン・ディアス/ハビエル・バルデム/ブラッド・ピット/他 原作/コーマック・マッカーシー:『悪の法則』
罪を、選んだ。


 口を酸いくして乃公、いくたびも奏上してござるが、環境、というものはこれ、非常に大事なりける要素であって、環境ひとつでひと、にんげんの生涯というものは容易く決定付けられ、良い環境に育った人は水尾が末広がるがごときに展望が拓けて行くのに対して、悪い環境に育った人は、「努力をしろ。足らぬ足らぬは努力が足らぬ」と、まるで努力をしていないもののように扱われ、しなくてもいい努力をせねばならず、挙句、やっと人並みの飲食ができるようになった、ははは、今日は高級肉で自分へのご褒美にしたろかの、とか、ひとりでぶつぶつ言いながら牛丼屋に行く最中、これまた悪い環境に育った勤労少年たちに襲撃を受け、財布を奪われ、牛飯どころか当分のおまんまに窮する事となり泣きながら共産党地方支部に駆け込み、資本主義への憎悪を募らせ、政治活動に身を投ずる事と相成ったりするのである。

 コーマック・マッカーシーが創造したここではないどこか。もうひとつのアメリカ合衆国南西部。
 乾いているのに靄のような不分明な光にてらてら照らされたそこは、野獣の王国である。捕食者と被食者の上下関係しか存在せずしてそれを主是とする、人間として考え得る限りは最低であるが、獣性として資本経済を言い訳に本能の発露をするには、最高の環境である。
 本作で描かれる、環境、には、マッカーシーの作家性と言ってしまえばそれまでなのだけれども、『ノーカントリー』などと同じく、未来への展望、つう文脈が面白いほどに切り捨てられており、まあ、結婚、なんてな凡夫凡婦が考えそうな仮初の展望も提示されたりもするのだけれども、最後、それがどえりゃあ目に合わされた描写もあって、はな、私は煩を厭わず筆を取り上げ、大嫌いだったそばかすをちょっと一撫でして溜息をひとつ吐いた次第に御座るよ。

 弁護士が麻薬取引に手を染め、そこに横槍が入り事態が二転三転していく、つうお話は、『悪の法則』の、まあ、極めて表層的な部分で、そこをうまうま食して分厚いパティを残すのは、ちくとばかし良くない環境、否、良い環境? よく分からんが、育った環境が知れてしまうので、知ったふうな事を云うが、弁護士も、麻薬屋も、宝石商も、そして恐らくデモにてスペイン語でアジっていた方々も、オールスター、みんながみんな、学を哲するといふか、けだものの食物連鎖をけだもの自身に喋らせたらこういう理屈を述べるのであろうなぁ、というような事を御為ごかして言上しており、おるのだけれども、肉食性のこの物語に於いては暗喩は事実のエスコートでしかなく、死体が積み重なっていく事実の前に、我々は「事実=悪=弱肉強食=世界≒マッカーシー&リドリー・スコット」というような認識に茫洋としてしまうわけです。ほで、茫洋としておったら、中身の入ったヘルメットが、ごろん、つて、転がってきたりするので、握った手を口に当て、きゃっ、とかほたえてしまう。何たる映画か。

 本作は、闇社会、詰まる現実の捕食と被食という関係ひとつを軸に据え、曖昧な部分は哲学めかした、ええと暗喩や仄めかしを容易に「哲学」とか言ってやっつけるのは大嫌いなのであるが、便宜上……まあ、総体的に「問いを立てている」映画なので哲学の範疇だろうと思い、便宜を図り哲学的、と言うが、哲学的な台詞やカットで、ディテールを補遺するという体裁なので、あちらこちらで「話が分からぬ」「『380ドル足りない』とは意味が不明である」「途中で黒幕は判明するのに『悪の法則を操っているのは誰か?』とは面妖な」といった悲鳴にも似た感想が漏れ聞こえてくる。頭脳がグーでもチョキでもない私としても正直、よう分からんかったし観終えたのちの感興はエンドクレジット中にシブメン作っておった事からも察していただきたいが、配役のせいか、それなりに客は入っており、なのに息のつまるような空気が館内に充満、しょっちゅう爆笑しておったグループなどもあったが、率直な感想としては出来に涕泣、つうよりも「すごいもん観たなぁ。ああ脳味噌のカロリー摂らなきゃ」といったもの。ロンドン市内をテキサス風にセットして撮ったという撮影・美術などからも、先に書いたが、マッカーシーの停滞した精神史としてのテキサス王国のイメージと、リドリー・スコットの退嬰的な照明の美しい融合がある。

 捕食者のイコンとしてかわいいチーターさんも数匹出演しているのだが、作中、最強の捕食者であるキャラクターにチーター模様のタトゥーが入っているのが印象的であるし、作為としては程好いわざとらしさだと思う。麻薬に首斬り、スナッフ・フィルムといったガジェットはハポネスたる我々の意識を麻薬カルテルに敷衍するもので、特に最後の方に出てくる1枚のDVDには、因果応報、とまでは言わないが、現実に満足していりゃ良きものの超現実である「悪」にちょらちょら手を出した報いとしての、悲歌慷慨の限りを尽くした最凶のグッズとしての思いを致さざるを得ない。人を煙巻にしたような台詞の数々に翻弄されず、こうしたどぎつい演出は分かりやすく表現しているのは見せたいもの、見せるべきもの、見せなくていいものの分別か……と考えると、本作の会話劇とは過程にすぎぬのかもな、と危険な感想も鎌首をもたげてくる。

 火遊びから大火傷を負う。然しくして、火元には人が居て、作為があった、つうのは割と普遍的な出来事である。「作為」には、殺人、セックス、ドラッグ、本能の希求するなにがしを当て嵌めてもいいのだけれども、食欲が支配的である事は本能中の本能で、そのためになら人間をドラム缶に漬けようが、首に合金ワイヤーを嵌めて絞め殺そうが、本能ゆえに許されるのか? 一応法治国家ではないのけ? と未熟な倫理観がぐんぐんけつを叩いてこようとも、それが許されるのがこのもうひとつのアメリカ南西部であり、それはロンドンやアムステルダムに飛び火して、人間に野獣の王国への回帰を求ム。そして私は、このよう分からん物語に恋着している。自分の中のどうしようもない悪性に胸を引っ掻きながら。


悪の法則悪の法則
コーマック マッカーシー Cormac McCarthy

チャイルド・オブ・ゴッド シャドウ・ストーカー 血と暴力の国 (扶桑社ミステリー) HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション) ブラッド・メリディアン

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悪の法則悪の法則
コーマック・マッカーシー 黒原 敏行


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