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『キャリー』(2013) 血と炎のビターな青春、ふたたび - 1953ColdSummer

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『キャリー』(2013) 血と炎のビターな青春、ふたたび


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キャリー 
CARRIE
2013/アメリカ/PG12 監督/キンバリー・ピアース 出演/クロエ・グレース・モレッツ/ジュリアン・ムーア/他 原作/スティーヴン・キング:『キャリー』
最も恐ろしく、切ない青春


 むかし、ものの本で読んだ事があるのだけれども、さくらももこという人は、手が届かない距離にある物を拾おうとする折に、精一杯身体を伸ばす、思いっきり唸る、などの策を弄した挙句、最終的に念力を試すらしい。
 さした物臭に、「両の足で立ち上がって拾いに行かぬか。努力をしろ。社会は厳しい。独裁者は出現させる側により多くの責任がある」などと、正式に抗議を表明するのは簡単であるし、正しけれど、まあ、つまらん物言いであって、なれば自分はこそと、尻を突き出しぱんぱん叩きながら「おっぺけぺけぺけぺけ」とオリジナリティに溢れた念力射出方法を試みて屁の一発でもひる方が傍から見ていて楽しいし、やっている本人も主に頭脳が楽しいであろう事はご理解頂けると思う。

 然しくして、念力、なんつうものは、無い、という前提で社会といふものは機能しておるため、迂闊にそこら中で念力で殺人が行なわれたり、滅多矢鱈にチアガールのスカートを捲られたりしても困るのであり、たまさかに念力の概念が創作物に登場した場合に於いても、これを中心としながら、細心の注意を払った扱いをされる事が多い。
 特に気が揉まれるのは、念力が、念力使いの支配下にあるか否かで、その点にして念力が使嗾される折のニュアンスはかなり異なってくる。
 ブライアン・デ・パルマの『キャリー』で虚喝を超えたカタルシス、遣る瀬無き忿懣、作品の滋味、刺身でビールをやるどころではないクライマックスの朱色の万華鏡を彩るのは、抑制が効かなくなった感情の暴発である。コントロールを失った念力が悪鬼羅刹のごときに地獄を顕現させる。ここに苛烈ながらも悲哀なりけるニュアンスを読む事は容易である。

 ほで、クロエ☆モレッツちゃんを主演にリメイクかまされた、キンバリー・ピアース『キャリー』を、クロエちゃんでは少々華やぎ過ぎておるのではなかろうか、そも、乃公は、何も知らずに無邪気にドレスを編むあのキャリーの哀しい姿をまた観たいのであろうか、とか、脳内を渾沌とさせながら観に行ってきたのだけれども。

 原作を読んだのは随分と昔のことになるが、原作ではキャリエッタ・ホワイト、通称キャリーが起こしたとされる大惨事を検証するというかたちで話は進んで行き、そしてこのプロットは原作者スティーヴン・キングが1回ゴミ箱に放り込み、妻に何をするか勿体ないと窘められ拾い出したもので、キングが苦節に苛まれておる時代を読む上での資料価値も高いものである。つうのはキングの『小説作法』の受け売りだが、もうこの陰湿な女学生のイジメ、もうあの狂信的な母親の毒親っぷり、もう破壊願望としか形容しようのないサイコキネシスによる読者のこころへの蚕食、など、苦と惨と悲を絡めて鰊醤油でいただいたがごとき酸味の中にも、いつか感じたる青春への懐古のようなものの片鱗を見て、頓狂な顔がますます頓狂な事になって頭をぼりぼり搔きながら部屋を右往左往、そして胸中の寂寥をどうにかせんとデ・パルマが映像化した『キャリー』の方を観たら、シシー・スペイセクが本当に、本当に心の底から嬉しそうにドレスを裁縫しておるシーンで、私の胸中に残っていた最後の善性、というものが涙腺を阿呆のように揺すぶり、結句、ちょっとここでは言えないような事になってしまったのだけど。

 シシー・スペイセクの幸薄い表情を模倣し、この役をやってみてキャリーの孤独を理解し涙が止まらんくなったというクロエ・モレッツの入れ込み方は痛いほどに伝わって来やるし、女性監督ならではの視点、例えばキャリーいじめにスマホやSNSを駆使する、いじめを反省した同級生スーの心境の変化をより分かり良くするなどの柔軟な変更は篤心あふるるものであるし、それが、観客の殆どが恐れ、期待しているであろうクライマックスの大惨劇の前提としてドラマを形作ってのいくのだけれども、そこは「より原作に忠実にした」という言い分よりも「デ・パルマ版を下敷きに闊達な改変を加えてみた」という意味合いを汲むべきだろう。

 まあ、クロエのアイドル性を、肩幅の広さを強調したり死に顔メイクみたいな顔色にしたりで無碍にしたとか、好意と皮肉のない混ざった文脈で乱調気味に時には「鼻の穴が気になった」などと大胆な意見を交えて語るのも一向に構わないと思うんだ。
 然しくして、私が気になった、気にした、気にかかった、気になって仕方がなかった部分は、本作の僅々と見えて実は一番の改変部分である、「キャリーが自由意志で念力を操れるようになった」というところで、キャリーは自分が刎と念ずれば物を自由に動かせる事に気付き、ポーズを振り付けながら物質を浮かせて嬉々とし、母親を抑制し、プロムナイトで大見得を切る

 お分かりに御座ろうか。詰まる、本作のキャリーは、「弱者」ではなく、「強者」になってしまっておるのだ。

 冒頭、聖句をつぶやきながらキャリーを出産する母ジュリアン・ムーアがハサミで赤子を刺殺せしめんとするのだが、ピタと止めると赤子をあやす。ここまではキャリーの自己防衛の発露と受け止められぬ事もない。
 が、図書館で借りてきた本や動画サイトを書見し、ワガの超能力に自覚的になっていくキャリーはどうか。これ、詰まる、本来、感情の爆発、イヤボーンなんてスラングもありましたな、であった念動力サイコキネシスにどんどん、どんどんですね、どんどんですよ、恣意的になっていくという事で、そこに自覚を持ってしまうとどうなるか。詰まる、やり返そうと思えばいつでもやり返せるのだ、ははは、笑ける。つう、強者としてのポジションがキャリーに与えられてしまうっつう事で、「トミーは特別よ。良い人なの」も、「私やっぱり嘲笑されたわ」も、弱者の嗚咽として観客に刷り込む事が困難になってしまっている。

 とは言い条、それ以上の抑圧を示すジュリアン・ムーアの怪演や、これは恣意性の産物であるが、先生やプロムに誘ってくれたトミーの扱いなど、ちょらちょら上手い事改変されているところもあって、まあ、救いが無いといえば救いの無い話ではあるが、血と炎を背にした凄惨な姿にシシー・スペイセクの呪縛を見る事なく、新生キャリーとして無垢なる視座から観るのも可能であって、最後の最後の例のショットも、良い意味で驚かされる事もなくひとりの少女の哀しい話として咀嚼できるものとなっている。
 あと、これはごく個人的な話なのだが、生理用品を投げ付けられるシーンで、バスタオルを巻いただけのクロエちゃんの、えっと、あの、ごっほん、まあ、その、ちらと、見えた、ような気がしたのだが。


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