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1953ColdSummerの雑文コンテンツ

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    『ラブリーボーン』 パラ何とかよりもこっちのが怖いよ! (2010/アメリカ イギリス ニュージーランド 監督:ピーター・ジャクソン 製作総指揮:スティーヴン・スピルバーグ 原作:アリス・シーボルト『ラブリー・ボーン』)



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    ロード・オブ・ザ・リング』『キング・コング』と超大作を連発してきたボクらのピージャクことピーター・ジャクソンの最新作。自分の中では、いくら大作を連発しようがピージャクは未来永劫『ブレインデッド』で『バッド・テイスト』な監督なのだが、それはそれとして、アリス・シーボルト著『ラブリー・ボーン』の映画化である。本作を観るまでは「これまたえらい可愛らしい作品を映画化したものだなあ」と無邪気にピージャクの頭の心配をしていたものだが、観終えた後、スプラッタやスペクタクルな方面以外の演出でも見事にピージャク印が押された本作の出来に、ううむと唸ってしまった。決して手放しでベタ褒めできる内容では無いのだが、監督の作品性、という部分で妥協を許さず、「殺されてしまった主人公はこの世と天国の隙間に居る」と、原作と微妙に異なる設定で贈られる本作は間違いなく賛否両論が飛び交うであろうもの。原作ファンがどれだけピージャクブランドに魅せられて観に行くかは甚だ疑問に思うのだが、もちろん原作ファンも本作を観た以上怒ってもいいし、感動して泣き崩れたっていい。

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     優しい家族に囲まれて育ち、将来の夢は野生動物の写真家になりたいという14歳の少女スージー・サーモン。初恋に胸をときめかせ、キスまであと一歩……と幸福な人生を送っていた彼女は、ある冬の日に近所に住んでいた模型マニアの中年にレイプされ、殺されてしまう。
     自分の死をすんなりと受け入れる事ができなかったスージーだが、天国の入り口に到着しやっと自分が死んだ事に気付き、自分はどうするべきかを考える。バラバラになってゆく家庭、犯人探しに奔走する父親と警察、そして、愛する人と、自らを殺害した犯人、それらを見つめながら、スージーはどうにかして彼らにメッセージを伝えたいと足掻くのだが……。

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    この世と天国の狭間で悩むスージー。

     これは非常に叙情的な映画で、ディズニーもかくやという叙情的な映像を受け付けられる人と、そうでない人の間で評価が割れるのは仕方ないだろうと思われる。
     主人公を演じたシアーシャ・ローナンの無垢なキュートさと凄惨な事件が対比的であり、また叙情の世界で動くその様だけを切り取れば、キャスティングにもまったく文句は無い。
     作中で起こった事件は本当に惨たらしいものなのだが、それを敢えてドライに流し、ポジティブに見せる手法は原作への配慮なのかな? と思ったりもしたが、この映画、実はかなりホラー的な演出が詰め込まれておりまして。同時期に公開された「ホラー売り」の『パラノーマル・アクティビティ』よりも、「感動売り」の『ラブリーボーン』の方が怖いとはどういうことだっ。と怒った人間も居るとか居ないとか。シルエットのまま無言で刃物を扱うサイコキラー、迫ってくる足音(もちろんBGMはズンドコズンドコ言っている)、闇の中、逃げ出す少女――等々、明らかに観客を怖がらせようとする意図的なシーンが詰め込まれており、この点なんかが例えば「本作はまとまりに欠ける」とか「中途半端」だとかそういう批判を呼んでいるのであろうが、逆に考えれば、本作はホラー、ファンタジー、ドラマと多種多様な視点から楽しめるのであり、「まとまりが無いから駄作」という短絡的な総評だけで済まされることも無いと思う。

     本作は、たった14歳の子供を失った両親の苦悩といった部分も丁寧に描き込んでおり、こんな部分こそが文化圏や宗派を問わず、家族愛とか喪失の悲しみとか、そういったドラマツルギーの共通点なのかなと考えさせられたりして、映画の本旨と通じた部分での感動すら呼び起こす。主人公スージーは「私は死んだ」と冒頭のモノローグで言っており、まあ主人公が死んだことが大前提の映画であるからしてネタバレもヘッタクレも無いから書いてしまうとして、その凄惨な死や、死ぬに至るまで送ってきた幸福な生活が故意的にメソメソと描写され、スージーがいざ死んでしまった後には非常にドライに物語は進む。

     スージーが留まっている「中間の世界」の描写はファンタジーそのもの。ボトルシップの出現や、舞い散る樹の葉などは観客に疑義を差し挟むことすら忘れさせ、天国に行く前段階としての魂が留まる場所としてはオーソドックスに叙情的、観念的に描かれている。ちなみに注意して観ないと、これらのファンタジー描写を誰かの頭の中と勘違いして、それが死後の世界である事に気付かなかったりする。ここは単純に編集の瑕疵であろう。スピルバーグが指揮しておきながらちょっと脇が甘かったなと感じる。

     そして、最終的に事件は……ネタバレになるで書かないが、書き割り然とした、非常にあっさりとした結末が待っている。この描写からも本作は殺人犯をどうするかといった点に重きを置かず、飽くまでメッセージを届けようとするスージーの健気さに労力を割いていることがよく分かる。
     本作を覆うふわふわ、ゆらゆらとした空気の正体は、間違いなく「優しさ」であり、それを体現する主人公スージーの無垢さである。こうした世界観の作品をピージャクが手掛け、最後に救済を用意したという点は、映画ファンからして見ればちょっとした分岐点である。
     本作は決して万人向けとは言わないが、万人が考えた事があるであろう価値観を軸にしている。

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    『桜桃の味』 死生観と自殺の是非。 (1998/イラン 監督:アッバス・キアロスタミ)




    Tate of cherry

     主人公バディ氏は、人生最後の、とある仕事を手伝ってくれる相棒を探すために車を運転し彷徨っていた。砂埃と乾燥した空気の中に虚ろに視線を巡らせるバディ氏。めぼしい人物を見つけては声をかけるのだが、最初に「仕事」を頼んだ若い軍人には逃げられ、その次に出会った神学生には宗旨から拒否される。やがて最後に出会った老人には請け負ってもらえたのだが、老人はバディ氏にある話をした。
     それは、自殺の片棒を担いでくれる人間を探し求めていたバディ氏に対する、人生の楽しさを桜桃の味になぞらえた少しだけ長い話であった。

     まずは、「私は、夜に睡眠薬を飲んで穴の中に横たわる。君は次の朝に来て、穴の中の私を2回呼んでほしい。返事がなかったらそのまま土を盛って埋めてくれ。謝礼ははずむ」と懇願して回る主人公バディ氏の空虚さである。
     淡々と、それでいて執着的なそのお願いは、前記の通りほとんどの人間に断られるのだが、断られ逃げられた瞬間の「何故だ」と言わんばかりの瞬間的な形相と、その後、淡白な表情に戻ったときのギャップによって一層バディ氏の空虚さを際立たせることに成功している。
     自分の人生最後の命がけの仕事自殺したいんだからそりゃそうだ)の補佐を忌まれるように断られ続け、それでも「相棒」を探し続けるバディ氏の執念に狂人のそれとの差異を見出すことは難しい。

     わたしたちは生活していく上で誰かに何かを否定されたとき、「えっ、何で?」と疑問に思う。疑問は解決されるまで頭に留まり続けるし、必然的に疑問に沿って行動するようになる。そして疑問が解決され、それが悲しければ泣くしムカつくものであれば殴る。
     本作のバディ氏は、そういった疑問の一切をシャットダウンした状態で郊外を彷徨っている。自殺の手伝いを何で断られたか、自殺方法はこれで完璧なのか、そもそも、何で自分は自殺せねばならないのか。これらの疑問に対する最適解を探り当てようともせず、機械的に自殺の相棒を探している。
     作中でバディ氏が神学生に「オムレツを食べていきませんか。おいしそうですよ」と誘われる場面がある。バディ氏は「卵は体に合わない」とそれを一蹴するのだが、ここに氏の執念、生きる愉しみの全否定、疑問を感じることのなくなった精神状態が断片的に現れている気がして、少しだけ背筋が寒くなった。

     イラン映画に特有の乾いた空気と砂色を基調とした画の美しさは燦然としており、その中で車を走らせるバディ氏やその地で生きる人々の生活は自然賛美的でもあり、また必要最低限の人工物はオブジェとして難なく画面に映えている。
     本作の監督アッバス・キアロスタミは、素人を起用して撮影することで有名だと聞いた。なるほど、作中の人物に演技的なわざとらしさは無いし、ある種のモンド映画のような生活臭を醸している。そして、少しだけ入れられた本作の作為――最後に出会った老人の、自殺を望むバディ氏への問いかけが作品全体を引き締めるが如き観後感を与えてくれる。



     一つ、わしの思い出を話そう。結婚したばかりの頃だ。生活は苦しく、すべてが悪くなるばかりだ。わしは疲れ果て、死んだら楽になると思った。もう限界だとね。ある朝暗いうちに、車にロープを積んで家を出た。わしは固く決意してた、自殺しようと。1960年のことで当時はミネアに住んでいた。わしは家の側の果樹園に入っていった。1本の桑の木があった。まだあたりは真っ暗でね。ロープを投げたが枝に掛からない。1度投げてだめ、2度投げてもだめ。とうとう木に登ってロープを枝に結んだ。すると手に何か柔らかいものが触れた。熟れた桑の実だった。一つ食べた。甘かった……。二つ食べ、三つ食べ……、いつの間にか夜が明け、山の向こうに日が昇ってきた。美しい太陽! 美しい風景! 美しい緑! 学校へ行く子供たちの声が聞こえてきた。子供たちが木を揺すれと。わしは木を揺すった。皆、落ちた実を食べた。わしは嬉しくなった。それで、桑の実を摘んで家に持って帰った。妻はまだ眠っていた。妻も起きてから桑の実を食べた。美味しいと言ってね。わしは死を置き忘れて桑の実を持って帰った。桑の実に命を救われた。桑の実に命を救われた。

     あんたはトルコ人じゃないから一つ笑い話をしよう。怒らないで……。トルコ人が医者に言って訴えた。“先生、指で体を触るとあらゆる所が痛い、頭を触ると頭が痛い、足を触ると足が痛い、腹も痛い、手も痛い、どこもかしこも痛い。”医者は男を診察してこう言った。“体はなんともない、ただ、指が折れている。”と。あんたの体はなんともない、ただ考えが病気なだけだ。わしも自殺しに行ったが、桑の実に命を救われた。ほんの小さな桑の実に。あんたの目がみてる世界は本当の世界と違う。見方を変えれば世界が変わる、幸せな目で見れば、幸せな世界が見えるよ。

     すべてを拒み、すべてを諦めてしまうのか?
     桜桃の味を忘れてしまうのか?



     また、落としどころが予定調和的かつ説教的なものでなかった事も特筆すべきであろう。感動、感涙、感激を与えることを前提としたヒューマン・ドラマの数々は過剰であり、過剰であるが故にドラマの緩急の差分から人心を揺さぶるように出来ている。
     だが、本作は全然過剰な部分は無く、むしろ欠損と指摘されてもおかしくない作りだ。前述のバディ氏の空虚、乾いた景色の遠景と最低限の音楽に代表されるオフビート、そして、結局はドラマの大部分がバディ氏の懇願とそれに対する拒否だけで構成されてしまっているシンプルさ。これだけスマートに作られた作品を「過剰だ!」と揶揄するヤカラがいたらそれは阿呆かめくらのたぐいである。無駄なものがそぎ落とされた完成度、とは言わないが、ハリウッド式の肉食てんこ盛りドラマとは完全に種別が違う、ということは強調しておきたい。

     暗喩にすらなっていない曖昧な結末と、ラストに突然挿入される強烈な作品の相対化に衝撃を受けたとか、意味が分からなかったとか、何だこりゃと思ったとか、そういった文脈の感想をよく見かける。
     個人的な見解を述べると、まあこれはほとんどの映画に当てはまることなのだが、あの最後は観た人間の数だけ解釈があって当然だと思う。例えばコップひとつを取ってみても、「コップは丸い」「材質はガラス」「中身は水」といくらでも言い様はあるのだから、作品として仕上げられた映画のラストが十人十色の感想で染め上げられるのは当然のことである。
     だが、それを踏まえた上で敢えて書くと、本作の結末は、空虚と入滅に対する対処方法を指示していたのだろうと思う。すべての出来事をメタ化して、笑い飛ばせ! と、そのくらいのレベルで語っていたのだろうと思う。作中の老人のバディ氏への問いかけと合わせて考えてみると、何となく答えが引き出せそうな気がするが、ここで断定してしまうと(良い意味での)作中のハッタリが功を成さなくなってしまい再見時に損してしまいそうだ。故にここでも本作の断定的な評価は記さない。

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    『INJU 陰獣』 乱歩作品はトチ狂ったフランスナイズドにレイプされた。 (2009/フランス 監督:バーベット・シュローダー 原作:江戸川乱歩『陰獣』)




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     これはまた「怪作」というか「珍作」というか。「秀作」でないことだけは確かなんだけど、本当に形容に困る。
     乱歩の『陰獣』を原案・下敷きにした本作の監督は、『完全犯罪クラブ』のバーベット・シュローダー。主演は『裏切りの闇で眠れ』のブノワ・マジメル。そして、できた映画がハイ、『INJU 陰獣』……。いや、総じて悪い映画ではないと擁護したい気持ちもあるけど、それは明らかなスポイルであるし、何より乱歩作品の映像化というものは鬼門であるというのが定説で。何もこんな奥歯にものの詰まったような言い方することないか。
     フランス映画ではあるが、俳優陣はほぼ全員日本人。メインロケも日本で敢行、で、原作は江戸川乱歩。と、くれば「どこで何が狂ったんだろうなあ」と溜息のひとつも出そうなものであるが、そもそも日本人ですら乱歩の世界を映像化するのは困難なのに、フランス人監督が何をトチ狂ったかそれに挑戦した、という心意気だけは買いたいと思う。
     そして恐る恐るDVDを再生してみたわたしの前に現れたフランスナイズドされた乱歩ワールドは……。

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    ……!?

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    ……!!

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    ……!!??

     唐突な首チョンパから、何の脈絡も無く現れ出でた天狗面の男と始まるチャンバラ……。この素敵過ぎる演出にトップダラー禍津本気で腰が抜けてどうしてくれようかと人生の深遠について考え込んでしまいました。が、これは冒頭の劇中劇で、「これが日本の謎の作家、大江春泥の小説世界だ!」と説明するためだけの映像だと知り胸を撫で下ろす。このアンモラルな作風が受け、日本には大江春泥の名は全国に知れ渡っている! とは作中の台詞だけど、この台詞に国辱とフランスからの侮蔑的意図を感じてしまうのはわたしが神経質過ぎるが故にであろうか。

     そんな大江春泥(の上記のような素晴らし過ぎる小説観)に興味を持ち、またライバル視しているフランスの作家アレックス・ファヤールは来日を果たし、絶対に人前に姿を見せない大江春泥の情報を探りつつも祇園に入り浸るようになり、やがて芸妓の玉緒と親しくなりある相談を持ちかけられる。それは、かつて関係を持った男こそが大江春泥であり、現在執拗に付きまとわれ嫌がらせを受けているというものだった。アレックスは大江春泥への興味も手伝い、一肌脱いで捜査を開始するのだが……。

     乱歩の原作が有名過ぎるものであるからして、別に今さらネタバレもクソも無いと思うのだが一応結末にはどんでん返しが待っていて、ミステリ的な構造云々を言えば、まあフォーマットに沿ったものにはなっている。劇中のミスリードもさることながら、主人公をフランス人にした事によってある種の情報を完全に遮断しているというのも良い。一介のミステリ読みとして言わせてもらえれば真相こそ流石に古臭く感じるものの、そこはフランス流の映像のスタイリッシュさでカバー……

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    カバーされてないよ!

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    全然されてないよ!

     何だこの中途半端なポルノ・テイストはっ。
     わたしは基本的に、乱歩作品を「エログロ耽美」なんて言っている人は実はあまり乱歩を読んでいない人ではないのかなあ、と思っているのだが、上記のシーン、これはもうあれですよ。典ッッッ型的な乱歩素人が乱歩作品に抱いている偏見そのまま。偏見でもの喋ることは別に悪いとは思わないが、偏見で作ったものを「これが乱歩ワールドだ!」と見せられることとはまた別の話でしてね。強調すべき部分は、まだ都市圏にも「闇」が残っていた時代の残滓であって、決してエロスやリビドーのたぐいではない。それらは付加的に添えられたものであって、本旨は覗き小屋的な「偉大なるB級」と形容される世界観こそが乱歩の愉しみであり魅力であったはず。下賎なポルノ紛いのものを「さあどうだ」と見せられても口をパクパクさせることしかできませんよ、こっちは。

     かように乱歩フリーク的な視点で語るとツッコミとディスだらけになってしまうので襟を正して本作の特色を述べてみると、やはりフランスから見たNIPPONのヴィジュアルセンスに尽きると思う。そんな点からしか語られない本作はかわいそうなものだとは感じるが、それを大真面目に観たわたしはもっとかわいそうですっ。
     例えば、作中では大江春泥の住まいとされる洋館が近景から、2回映される。洋館のデザインや内装などには別に文句は無いのだが、何か知らないけど洋館の傍には鉄道が走っていて、この洋館が出るたびにゴォーっと新幹線が背景に通り過ぎる。これがまたフジヤマ的なNIPPON感を醸しており、CG丸出しな新幹線のヴィジュアルと共に泣きそうになる。疲れたときにはこれだ! と栄養ドリンクを飲む描写を含め、日本のアイデンティティなんてこんなレベルでしか認められていないのかとゲンナリ。
     たまぁーに、「おおっ」と思わせるシーンもあったのに、これじゃ差し引きゼロじゃないですか。

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    屋根裏の散歩者』オマージュである覗きシーンもあったのに。

     兎角、本作はツボを押して押して押しまくってくれる。それが乱歩ファン、映画好きのツボではなく笑いのツボだということが本作の最大の問題点なのだが、妖美の世界もトンチキフレンチ野郎の手にかかれば新喜劇と化してしまうこと大請け合い。本来、作品全体を覆っていなくてはならないミステリアスさが悉く笑える演出になっているのはどういうことであるかっ。と平井太郎さんも地獄の底で激怒中ですよ。乱歩の本名なんですけどね。

     京都の芸妓さんや祇園界隈をベースにしたのはやはり日本的な色気が欲しかったからであろうが、肝心の芸妓さんがブスエラが張っていて美しさが不自由だったり、そもそも「日本」というか「アジアナイズされた日本」じゃないのかこれはという疑問を抱かせたり、これは個人的な意見だがフランス語と日本語をチャンポンに混ぜた脚本もスマートさに欠けていたり、何かと不自由さに事欠かない映画ではある。先にも書いたが、たまぁーに、「おおっ」と思わせるシーンもあっただけに惜しさを感じずにはいられない。

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    白肌に狂う鞭で刻まれた「死」の一文字。

     兎角、キワモノ的な映像を並べて「ハイ乱歩一丁できあがり!」とやる手法は駄目だ。それで多くの日本人が失敗しているのに、フランス人がそれをやったって成功するわけがない。個人的には1994年の『押絵と旅する男』(さっさとDVD化しろ)が乱歩の映像化としては、天知茂の美女シリーズと並ぶ最高傑作だと思っているのだが、これらはイロモノ的な偏見を排してきっちりと乱歩の文脈を読み取っているから素晴らしいのであり、決してヴィジュアルショックで沸かそうとはしていない。その点を踏まえているならば、ぶっちゃけ真犯人が原作と違おうが舞台が違おうが文句を言われない佳作にはなると思う。どうか多くの外国人監督が「本当に」乱歩を読んでくれますように。

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    『愛を読むひと』 愛情は必ず下降する。 (2009/アメリカ ドイツ 監督:スティーヴン・ダルドリー 原作:ベルンハルト・シュリンク『朗読者』)




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     原作であるシュリンクの『朗読者』は既読。
     アウシュビッツの悲劇、ナチスSSの戦争責任といった、原作でチラチラと触れられていた部分には大胆なカットを施し、マイケルとハンナの「愛」の在り様と形について大きくアプローチした本作は、ケイト・ウィンスレットの惜しげもなく裸を晒す熱演もあって数々の映画賞にノミネートされている。
     本作が、アメリカとドイツの合作であるという点にも注目したい。大海を跨いで争った両国が「文学」の元に手を取り合い、ドイツの暗部を人物の背景にした映画を作ったのだ。これにはベストセラーとなった原作の偉大さもあるが、歴史的にも「映画興行」の枠を超えた意義があるのではないのかと個人的には感じる。
     文学やら歴史やら何やらでややこしそう、と思ったそこの貴方は勘違いをしている。文学やら歴史やらをダシにした話だからややこしくないんだよ! 元々みんなが知っていることだから映画内で説明しなくてもいいし、原作があるんだから分からなければそっち読めば? というスタンスで横柄に構えることもできる。だが、それをする事なく丁寧に作られた本作には真摯さを感じるし、また原作の味わいをも損なってはいない。

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    star個人史と社会の動き
    starGood Read
    starあんまり現代小説を読まない者の感想です。

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     当然、「無修正」という惹句には大きく惹かれたのだが、元々修正するほど裸が出てくるわけではないので(裸体はたくさん出てくるが、性器はほぼ隠されている。見えているのは乳首と尻程度)、あとはナチス関連のアレコレがドウされているのかなーと思っていたら別に何ともなっていなく、微妙な肩透かしを食らった気持ちになったのだがこれはごく個人的な話なのでまあいいとして、ヴィジュアライズされた文学というものの持つ極端なメッセージ性は、本作では鼻につくこともなく上品に展開されている。
     社会正義云々と個人間の愛情を天秤にかけるという下品なことをせず、さらっとエンディングまで見せる画作りには撮影の美しさもさることながら、文字の存在しないハンナの部屋だとか、アート志向な照明加減のセックスシーンのような文学性に根差した上品さが一役買っている。裸が出てきたら即下品だなんて喚く人間は普段どれだけ裸を意識し裸を考えているのだろう。裸々っていちいち喚くんじゃないよ! お前の両親は服を着たまま子作りしたのか! そっちの方が下品で変態的だと思いマスヨ。
     
     さて、1958年の西ドイツ。マイケル少年は道端で嘔吐していたところを通りすがりの女性に介抱される。そこから二人の交流が始まり、15歳という、リビドー的にスタンピートな、平たく言うとチンコがギンギンに滾っている年齢であったからして猛スピードでその女性との性行為に耽るようになる。相手の女性は21歳年上。でも関係ない。年増がしっぽりと若者を咥え込んでおりますのことよ、おほほ。と噂されそうな二人の関係はひと夏続く。その関係には奇妙なルールがあって、女性――ハンナは、行為の前に必ずマイケル少年に本を朗読させていた。
     やがてハンナは姿を消し、マイケル少年は法学生となっていた。そしてある日裁判の傍聴に行ったマイケル少年は、アウシュビッツ強制収容所の元看守たちが並ぶ被告人席にたたずむハンナを見つけた。

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    少年の記憶に残る、なぜかメニューを手にうろたえていたハンナ。

     マイケル少年はハンナに対し本を朗読していた、ハンナの部屋には一切の文字が無い、被告席に立ったハンナは筆跡判定を頑なに拒否していた、これらの行動から、やがてマイケル少年はハンナは実は○○であったと気付く。
     愛を育むたびに朗読をしていたという観念的、示唆的な行動がやがて真相へと結びつき、それが悲劇的な末路を迎えてしまう。この骨子は原作に準じるものであり、映画であっても脚本の中心となっている。昨今の新本格ミステリ的な仕掛けだが、それがトリックのレベルに留まらずドラマ全体を覆う物語ガジェットとなっている点は大いに評価したい。
    「何でそんなことを隠していたんだ!?」と理解に苦しむバカ……あわわ、他人の痛みに不寛容な人間もいるだろう。だけど、すべての人間を平等に計ることのできる物差しは存在しない。故に、他人には他人の物差しがあるということを理解しておいた方が映画を楽しめるし、のみならず人生で得を取ることが多くなるだろうと思う。

     愛情を大きくアプローチしておきながら、本作は「愛情」がそれを抱く両者の中に均等なものとしては存在していないということを痛烈に描き出した。かたや一つの隠し事があり、かたや戦争責任を知るやそれまで肉体を貪っていた相手を蔑視するような言動をし。
    「愛情」が至高のものであるという考え方は非常に青臭くチープで、手垢とクソの香りがする使い古されたフォーマットだ。だがしかし、その「愛情」がどういった時点で至高に達し下落してゆくかを考えるのは決して無益なことではない。そこには、かつて「愛情」の名の下に行なった青臭い行為の責任をどう取るか、という自責があるからだ。
     本作『愛を読むひと』は説明的な描写を一切入れずともそれを描くことができるという例を示した佳作だ。愛だ恋だセックスだとはしゃいでいた少年期のツケは必ず回ってくる。そこまで日常的なレベルに落とすことなくしても、それらの行為には必ず「相手」が居るのだから、絶対に自分ひとりで何もかも終わらせることはできない。ではどうするか。どうすれば悲劇を回避できるのか。それを自己保身と考えるかお互いのためと考えるか。

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    おすすめ平均 star
    star評論家ぶったレビューは、スルーしちゃおう、ぜ
    star美しい"純愛"だが非常に重く、厳しい映画
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    『マーターズ』 美少女虐待と拷問からフランスのゴア・シーンは再生する! (2009/フランス カナダ 監督:パスカル・ロジェ)



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     わたしは「やるな」と言われたことは激しくやりたくなってしまう性分で、例えば「そこの赤いボタンを押すと核弾頭が発射されて全世界に迷惑がかかるから、押しちゃいけないよ」などと言われようものならば、「へ〜え。どれだけ迷惑なのかなぁ」と躊躇なくポンと赤いボタンを押してしまうタイプなのであり、社会性とか、倫理とか、道徳とか、ええい鬱陶しい。要するにそういった、「人間として常識に沿って云々」という同調圧力とどう折り合いをつけるかで日々悩んでいる。「苦悩」と言い換えてもいい。だからフィクションの世界で暴力を求めようが殺人行為に歓喜の声を上げようが別に人の勝手じゃねえかと唾棄しつつ、ドス黒い気分の時にはドス黒そうな映画をチョイスし観ることにしている。

     本作『マーターズ』は、そのドス黒さの解放の代置として150%機能する素晴らしいインモラルを全面に押し出した、後々カルト化する予感すらあるグラン・ギニョールだ。
     ノンフィクションの世界では法律や道徳に縛られ何かと制限されていても、フィクションの世界をチンケな法やチャチな徳で縛り上げることは実質上不可能なのである。作品を規制したり発禁にしたりという愚かな行為は確かに存在する。だが、規制されて発禁にされた作品の内容は、規制されて発禁にされたからといって捻じ曲がったりしないものであると早くみんな気付くといい。

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    規制? 発禁? 脳漿ブチまけてくたばりやがれ!

     本作『マーターズ』を語るには多くの言葉がいる。「MARTYR」が「殉教」「証言者」という意味であるという事。これからのフレンチ・スラッシャーのフォーマットとなりそうなスピーディな虐殺シーン。そして、肉体的な痛みを感じさせつつ、心理的にもむず痒さを与える画作りが施された美少女拷問シーン。
     身体中の傷痕も生々しい少女が命からがら逃亡するシーンに始まり、少女が「復讐」と称し幸せいっぱいの家族を猟銃で一家鏖殺にするシーンなどはミヒャエル・ハネケの『ファニーゲーム』を連想させる(『ファニーゲームUSA』の自分の感想はこちら)。そして、本作は二部構成的に怒涛のゴアシーンが吹き荒れる後半へと雪崩れ込むのだが、これらひとつひとつのシーンを噛み砕いて熱弁しているとお湯を入れたカップラーメンが出来上がってしまうので端折るが、最後のネタ明かしに至るまでの本作の暴虐と残酷は、本当に素晴らしい。だが、この「素晴らしい」には、「明らかに『作り物』であるのに生々しくて『素晴らしい』」という意味合いがあることは強調しておく。

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    やがてこんな死体が山盛りになってゆくのだが、これが冒頭30分以内の出来事という事実から本作のスピーディさは理解していただけると思う。

     先に「二部構成的」と書いたが、本作は前半と後半で本当にガラっと変わってしまう。とは言っても前半が宇宙人撃退で後半が難病恋愛映画というような極端な変遷ではなく、全編を覆う暴力と切株/ゴア描写は徹底して貫かれているのだが、世間様ではどうやら後半の展開、モルジャーナ・アラウィが人知を超えた……というのは言い過ぎかっ。兎角これでもかと惨たらしい目に会う後半の方に耳目が集中されているらしい。

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    こんな状態ですら可愛く思えるほどの凄まじいゴアシーンが後半に待ち受けている。

     もう意味が分からない、「何で? 何で? なぜなにどうして教えて!」と首をヒョコヒョコさせている内に、延々ネットリと続いた暴力拷問シーンは終わりを迎える。そして一息入れたころにすべてのネタ明かし……実は本作の暴力描写の数々は○○による○○の○○を知りたいがためでした! という極めて説明的なシーンが挿入され、エンド・クレジットへと続く。そしてそこに「ダリオ・アルジェントに捧ぐ」なんてテロップが入るものだから油断も隙も無い。ダリオが美少女虐待に先鞭をつけているからって、ものには限度があるでしょう! と、思わずこちらが「常識」をかざしてしまいそうになる程に本作は非常識で、惨たらしい。

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    こんな儚げなミレーヌ・ジャンパノイが後半にはもう居ないっ!

     だが、まあ、並大抵の残酷描写ではないとは言っても、そんな描写専門に作られた脚本もヘッタクレも無い映画(『ギニーピッグ』とか……)に比べれば鬼畜指数はやや抑えられた本作ではある。むしろ、そこをスピード感と画作りのセンスで補ったフランス映画ゴア・シーンにこれからは注目して行きたい。ハリウッドに対抗意識を燃やすだけではなく、ハリウッドができない事に特化させて映画を作っていこうという姿勢には好感が持てるし、期待してもいいと思う。そして血まみれ映画を満喫した後には、レアステーキでもみんなで喰いに行こうぜ!

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    『かいじゅうたちのいるところ』 本当は怖いファンタジー。かつてはみんな子供だった。 (2010/アメリカ 監督:スパイク・ジョーンズ)




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     モーリス・センダックが1963年に発表した、とてもとても有名な絵本を原作にしたスパイク・ジョーンズ監督作。絵本に出てくる「かいじゅう」たちの不思議なタッチが忘れられなくて、夜な夜なうなされたり、ペットに八つ当たりしたり、ウルトラ怪獣ソフビを見て複雑な気持ちになったり、まあそんな人間はいないと思うのだが、大人だと数分で読めるこの絵本に想像力を膨らませた子供たちは多かったと聞く。分量ではなく、絵柄やその微妙に狂気的な内容ゆえにとも。
     そんな絵本の「かいじゅう」たちは、本作では着ぐるみに表情はCGという造型で登場する。それらはどういったイコン的な役割を持ってデザインされていたのか、そんなことを考えながら鑑賞した。

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     一時の激情のあまり家を飛び出した少年がどこかに行く、というのはよくある話だ。わたしも幼少時、トイレに糞を詰まらせた挙句、怒り狂う親を尻目に「こんな家に二度と帰ってくるものか!」と家を飛び出したこともあった。もちろん夕食時には帰宅したのだが、少なくとも、当時のわたしの目の前には舟も無かったし、大海原も開けていなかった。必然的に現実に押し込められ、逃げたり脱出したりという行為は現実の範疇内でしか行えない。そういう常識が大多数の人間の頭の中にあるからこそ、物語は生まれ、絵本や想像力が役割を果たす。かくしてマックス少年は軽々と「現実」の範疇をはみ出し、家を飛び出し一人で海を渡り(なんというバイタリティだろう!)、「かいじゅう」たちが住む島にたどり着く。

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     そして、舌先八寸で「かいじゅう」たちを丸め込んだマックス少年は王国造りに着手する。冠を戴き、砦を構築し、無邪気に「かいじゅう」たちと踊るマックス少年に子供らしい感慨を抱いた人間も多いかも知れない。
     だが、誤解されるのを承知で私見を言えば、創作内で描かれる王国というものは滅びるために造られる。幸福が絶頂に達すればあとは下降するだけだ、とはどこぞの故事を引用するべくもなく常識として知られている。そう。「現実」の範疇を超えた「創作」の中ですら、「常識」は支配的な暴威を振るっているのである。
     マックス少年が「かいじゅう」たちに王様だと誤解され、島が王国の様相を呈してくるにしたがって自分の胸中には悲劇的な気持ちが広がっていった。国造りはただ単に子供らしいお遊戯ではない。それはイデオローグの発生源であり、国民の定義を物差す初動的なポリティカルだ。こういう行為を寓意に押し込め提示するのが絵本の持つ役割の一端ではあるが、わたしはいずれ訪れるであろう亡国を想像し、「かいじゅう」の腕がちぎれたり、「かいじゅう」の体内に隠れたりという狂気に満ち溢れた描写と合わせて怯えていたものだ。

     ファンタジー、というと何だかふわふわした丸っこいものを想像してしまいそうになるが、在り得ない事、過剰な事をも含めて「ファンタジー」と呼ぶことを忘れてはいけない。気が触れた人間や妄想の中の王国がファンタジーでないと言い切ることはできないのだ。そして、普通の子供――本作のマックス少年のような、どこにでも居そうな、誰もがそうであったような、「普通の子供」を主人公に据える事により、ファンタジーはその幻想性を増す。悲劇にしろ喜劇にしろ、より過剰なものとなる。
     本作には「ここまでが現実、ここからがファンタジー」というボーダーラインは存在しない。少年は普通に家を飛び出し島に渡り「かいじゅう」と過ごし、やがて<ルエカニエイ>。すべてが観たままのものであり、解釈によっては「かいじゅう」たちが住む島は逃避願望を持つ少年の妄想、狂気の産物と捉えることもできる。疲れ切って眠る母親の顔。それだけを観ても、少年の行動、或いは妄想が多大なものであったことは想像に難くない。

     他人を労わる、気を使うといった教育的な意味合いももちろんあるのだが、本作が見せたものは間違いなく現実と非現実の両極端であり、そしてそれらの間には境界線は無いという恐ろしさだ。少年時代に誰もが持っていた想像力を鍵とする「かいじゅうたちのいるところ」への扉を簡単に開けることができるという、現実から半歩ほど足を踏み外してしまいそうな恐ろしさだ。そこから帰ってこれるのかどうかは誰にも分からない。運良く帰って来ることができ、親の安堵した顔を見ることができる。そんな些細な「現実」の幸せが過剰に感じるほど、「ファンタジー」というものは恐ろしかったりする。

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    『鳥(2006)』 オマージュって難しいよね。 (2006/ドイツ 監督:エッツァルト・オニーケン)



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     アンブローズ・ビアスの『悪魔の辞典』の「歯科医」の項目には、右手で歯をいじりながら左手でポケットの金貨を抜き取る人、と記されている。唐突に何を、と言われるかも知れないが、この「右手で何かをしながら左手でポケットから金貨を抜き取ろうとする人」というものは普遍的に存在している。それらが目立って跳梁跋扈しているシーンとしてはやはり映画業界を外すことはできず、レンタルショップでジャケットに騙されてカス映画を掴まされた経験のある諸賢になら、分かっていただけると思う。

     まあ身も蓋もないことを言ってしまうと、本作『鳥』は、その左手が観客のポケットに伸びてきつつある作品だ。ぎりぎりのところでブレーキをかけてはいるものの、やはり観る前の期待や、1時間33分の観た時間と作品の出来を並べて考えてみるに、「騙された」「観て損した」「金返せ」という悪罵を受け謗られても仕方ないとは言える。何故ならば、本作は間違いなく、一部の……いや、「一部」の内の多数の映画ファンに大きな期待を寄せられていた作品であるからだ。
     その期待の源泉は、本作が、かのヒッチコックの名作『』への大いなるオマージュだということに由来する。
     本作の原題は『Die Krähen'』であるが、これを『鳥』という邦題にした配給のやり口から見てもそれは間違いないだろう。

     オマージュというものはとても難しい。
     匙加減を間違えれば「パクリ」になるし、「パクリ」をしないように意識すると「別物」になったりする。これは本当に難しい。元の作品に対する熱意が並大抵のものでは秀逸なオマージュを発表することはできないだろう。名だたる監督のセルフリメイクですら確実に賛否が別れるのに、他人の作品への愛を盛り込んだオマージュを作るという行為はさぞや難易度が高いであろうことは容易に想像できる。
     本作『鳥』は、見た目に限定して言えばヒッチコックへのオマージュとはすぐに判る。だが、手触りや毛並み……つまり実際に通して観て考えた結果として、やはりその作品性は水際立ったものではないと結論付けざるを得ない。

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    現代風にアレンジされた鳥たちによる襲撃。

     鴉の大群が人を襲い始め、その理由を探っていく内に動物学者が鴉の知能を高める研究を行っていたことが判明し――。というのが大まかなあらすじである。
     この映画で唯一特筆することができるのは、この大量の鴉の群れ。バーベキュー大会に来襲し肉を食い荒らし人間を引っかき突っつきまくるその様子だけは本当に迫力があるし、また洗練されたものでもある。結局鴉は焼肉を奪って人間を突っついただけではないかっ。というツッコミはハハハと流す。
     後半、もう数え切れないほどの鴉がウジャウジャと平原に集い、首をカクカク動かす様子はそれが半分くらいCGだろうと分かっていても中々に壮観なものである。いや、世の中には蛆虫プールとかミミズ1000匹とかもっと凄い画ヅラがなんぼでもあるので、この鴉の大群はCGとしては凡庸に位置するのかも知れないが、見せ方には技巧を凝らしている。
     何でも本作に登場するCGでない方の鴉には、『WATARIDORI』のアニマルトレーナーが専属でトレーニングを施したらしく、単体の鴉の場面では、なるほどソツない動きを演じている。

     だが、鴉の大群及び単体の鴉を褒めてみても脚本はやはり凡庸でやや退屈なもので、実際には本作はアニマル・パニックではなく、鴉の謎を捜査するサスペンス・スリラー的な部分に偏ってしまっている。もちろんこの部分には優秀なアニマルトレーナーも賢い鴉役者もノータッチなので、淡白で既視感あふれる台詞回しや場面が横行することとなる。
     主人公が妊婦だという設定や、新しく引っ越してきた田舎町という素材もぞんざいに扱われたままなので、どうもお話が消化し辛く、最後のホラーお約束シーンももう様式美すら感じるもののそれ以上のものは一切感じず、白けた空気が漂う。確かに鴉の大群さえ予告で見せておけばみんなの興味を引きそうな作品ではあるが、それだけである。

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    starおかしいのは鳥?それとも私?
    starオマージュかと思いきや
    starこれはひどい・・・

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